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武道という身体活動の可能性 

ほとんどの身体活動の分野において、プロやオリンピックで活躍するトップアスリート達のほとんどが40代前半くらいまでには引退してしまうことから分かるように、常にレベル追求し続けることができ、そういった身体活動に「真剣に」打ち込めるのは若い時だけに限られていると私達は認識している。

しかし、前回の記述のように剣道では地稽古で年配の剣士が若い剣士を追い詰めるような光景を見ることは珍しくない。剣道に限らず他の日本の伝統武道でも、年老いても尚冴えわたる技を繰り出す達人を現実に見ることが出来る。武道という身体活動の中では種目の違いに関係なくスポーツ的概念とは違うレベル追求のベクトルがあるようだ。武道は人間同士の戦いを想定した状況を起源として発展してきた種目なので、身体を土台とした競い合いであることには違いなく、その点においてはスポーツと同じである。にもかかわらず、40代前半を遥かに通りすぎた60代70代の方達が20代、30代の若者達を圧倒できるという点は注目に値する。

私達の身体能力のポテンシャルはほとんどの人達にとってスポーツ的価値基準に照らすことでしか認識されていない。しかし、現実にはそれ以外の価値基準に従ってレベル追求することが可能であり、それによりそれまで顕在化することのなかった身体能力のポテンシャルを引き出せるということを日本武道の身体活動は示しているのではないか。もしそうだとしたらなんと魅力的なことだろう。

現在、日本では高齢化が深刻な問題となっているが、他の多くの国々でも同様の問題を抱えているようだ。高齢化の問題ということの具体的な意味を今更確認する必要はないかもしれないが、改めてネットで検索してみると「人口構造が変化し、高齢者の割合が増加することで生じる社会的な課題を指す。具体的には、医療・福祉の負担増、社会保障制度の財政難、労働力不足、経済成長の鈍化などが挙げられる。」とある。

現在の社会は、経済や保障制度の運営を支え提供する人達と、それらを享受する人達とで構成されていると言える。心身共に健康で、ある一定の肉体的な強度を保つことができている人達が前者であり、そうでない人たちが後者ということになる。当然このシステムは両者がバランス状態であることによって機能するわけだが今、後者つまり肉体的な衰えを迎え、それらに依存せざるを得ない人達の割合が多くなってきたことでこのシステムが機能不全になり始めている。

この問題の最も根幹をなす部分は、「誰もが肉体は衰える」ということに尽きる。そしてそれは平均寿命が延びたことによって問題化した。平均寿命が延びる前は肉体が衰えるということは社会的な問題ではなかったのだ。つまり平均寿命が伸び高齢化が問題になったことで寿命が伸びた分の時間の生き方について改めて考えなければならなくなったということだ。肉体が衰えることは変えがたい事実であってもいかに衰えるかという部分には人間の英知を投入できるしそうしなければならい。

肉体が衰えるということを問題の根幹にさせている要因は、サービスを提供する側から享受する側への移行度と、肉体の衰え度が比例していることだ。この問題への対策には様々な局面で短、中、長期的な時間スケールによるものが既に取り組まれているが、肉体の衰えを鈍化させるにはどうすればいいのか、衰えても尚提供する側であり続けるにはどうすればいいのか、という発想もまた対策の一つとなり得るはずだ。

このような観点から上記のようなコンテンツを持つ武道の実践も高齢化問題対策の一つとして貢献できる可能性がある。前回描写した25歳の剣士の拓馬にとって、全く歯が立たなかった75歳の先生剣士は憧れでありこれから先、まだまだ多くの教えを「享受」しなければならない対象である。一方75歳の先生剣士はそういった教えを「提供」する側であり続ける。この点において少なくとも剣道という身体活動のコミュニティの中では、サービスの提供から享受への移行度と肉体的な衰え度は反比例していると言える。

先述したように私達は、身体能力の衰勢について40歳前後がピークだと漠然と認識しているがそれはスポーツ的な価値基準に照らされたレベル追求の方法がモデルになっているからだ。もし、そこからもう一つの方向性にシフトすることによって、40代後半からの人生も引き続き身体能力のレベル追求に情熱を燃やすことができるようになれば、高齢化は少なくともこの点においては問題ではなく豊かさへと変換されるだろう。それは武道そのものの実践に限定されたものなのか、その中から不偏性のある一定の条件を抽出し一般化することができるのかについてはまだまだ考察の余地があるが、いずれにしても日本武道の持つ価値基準による身体活動が広まり、その先にある理想的なレベルというものが理解されていくことはとても大きな意味を持つ可能性がある。

私が今でも武道を続け、さらに指導による普及活動をしていることにはもちろんこういった動機が伴っている。これは私が生きる上でのロマンでもある。だからまだまだ学ばなければならないことは沢山ある。a great deal to learn.

 
 

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