打って反省、打たれて感謝
- Takeshi Oryoji
- 9月7日
- 読了時間: 5分
スポーツと武道は、それぞれの対人によるやり取りの様相が外見上あたかも同様の行為であるかのように見える。そして現代においてはスポーツ的概念による身体活動が主流になっている。このような状況において武道がスポーツの身体活動と混同されやすいため、武道を実践する上ではこれらの違いを明確にする必要がある。このような理由から双方の違いの一つとして、スポーツの目的は勝つことであり武道の目的は見事な一本を追求することであると述べた。
そもそもスポーツと武道はそれぞれが全く異なる起源を持ち、そこからそれぞれ独自の経緯を辿り現在に至っている。スポーツにも武道にも共に勝つことを目指した競争の要素がそれぞれの起源に見られる。スポーツの起源は狩猟採集時代に狩猟の技術を競い合っていたというところまで遡ると言われている。一方武道の起源は武術BUJUTSU、または武芸BUGEIと呼ばれ、その主流は自動的に剣道の起源である剣術KENJUTSUの歴史を辿ることになる。それは日本刀と共に発展した武士の戦闘技術に遡る。戦闘の技術なので当然ここにも「競い合いがある。
しかしその後、スポーツというコンセプトはこの競争を起点とした上で様々な文明や時代を経て変遷されてきた。目の前の相手は自分にとって勝るべき対象としての存在であり続け、自己のアイデンティティは相対的価値基準の中に見出そうとする世界観が確立された
一方武芸、武術における相手という存在は時代の移り変わりの中で別の意味を持つようになる。その変遷は武士道の精神性と融合することにより起こった。武士道の精神性とは武士が守るべき道徳や価値観の体系である。従って各人が精神鍛錬、人格形成という内面に向き合うことが求められ、武芸、武術の稽古の中にそれらの手段としての側面を見出していく。こういった精神鍛錬の側面が徐々に強調されていく過程でやがて武道と呼ばれるようになる。精神鍛錬、人格形成という内面の成熟に取り組むための方法としては必ずしも戦うということだけが入口である必要はない。茶の湯や生け花、立花の中にも同様の側面があり、それぞれ茶道、華道として定着していく。これらの稽古法に共通しているのは型によって完璧な所作を目指すことである。
剣術に話を戻そう。普段から真剣を使って対人稽古をしていては稽古の段階で命を落としかねないし、例え木刀を使ったとしても自由に打ち込み合う稽古では致命傷を負う事故も多々あった。現実的には型稽古が主体となっていく。型は最も理想的な所作のことであり、それは積年の英知により徐々に効率化され理想化されてきたものである。この型を完璧に辿ろうとすることが道場での稽古の最終的な目標となっていった。型を辿るとは単に動きの手順を正しく辿るだけではなく、外見からはなかなか確認できない微妙な体使いや、間や息遣いなどの繊細なレベルに至る要求度を満たしていくことである。このように型を完璧に習得しようとする過程で対人稽古における意識の照準は、目の前の相手から自分自身の内面へと180度転換した。
その後、木刀が竹刀に代わり、防具が開発され、自由な攻防のなかで打ち込んでいくことが可能になり、今の剣道の原型が生まれる。それでも尚、この型化された理想の技を実現しようとする稽古の方向性は依然として継続された。それが前回の記事のテーマにした「見事な一本の追求」へと繋がっていく。つまり、相手との自由な攻防の中で心を乱さず、姿勢を乱さず理想的な所作や反応に貫かれた技を繰り出すことを目指す世界観が確立された。このような世界観を持つ剣道の稽古に於いて、対峙している相手ももちろん見事な一本を目指している。
剣道には「打って反省、打たれて感謝」という言葉がある。稽古の過程でたまたま決まった自分の一本に満足していては到底その理想に近づくことは出来ない。見事な一本とは生涯かけて探し続けるものであるという認識を持ったときに初めてスタート地点に立つことが出来る。「打って反省」とは、そういった認識の下、たとえ自分の打ちが決まったとしても、それはたまたま時の運によるものではなかったか、見事な一本と照らし合わせ何かが足りないのかを反省せよ、という教えである。一方、打たれたということを、たまたま運が悪かっただけだと高を括っていてはやはり見事な一本を理解するには到底及ばない。打たれたということは自分に隙があったということであり、「打たれて感謝」とは打ってくれたおかげで自分の隙に気づくことができたということを相手に感謝せよ、という教えである。
このようにして剣道において目の前の相手は自分の一本の完成度を確認するために協力してくれる有難い存在となった。以下は、剣道の稽古の後に必ず見られる光景だ。少し覗いてみよう。
最後の稽古メニューである地稽古が終わる。息の乱れを沈めつつ稽古生達が先生の前に整列して正座する。号令を合図に黙想し心を静める。再び目を開け先生に礼をしてお互いに礼をして、その日の全ての稽古が終わった。するとそこから稽古生達は一斉に立ち上がり、さっきの地稽古で自分の相手をしてくれた相手を探し始める。見つけるとその人の前に一目散に走っていき正座して、
「(今日は私の地稽古の相手をしていただき)ありがとうございました。また機会がありましたらお願いします。」
と伝える。それに対し相手も
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
と返事する。地稽古で竹刀を交えた全ての人とこのような会話を交わす。
最後の礼で全ての稽古は終了しているので、こういったやりとりは余暇の自由な時間の会話と言ってもいい。しかし今ではしきたりのように全員がこのやりとりする。いつから始まったのか定かではないが恐らく世界中の剣道の稽古の後にこのようにやり取りしていると思われる。相手が感謝の対象であることの自然な現れといっていい。私はこの光景が好きだ。