日本人柔道家の苦悩
- Takeshi Oryoji
- 9月7日
- 読了時間: 5分
さて、これまでスポーツと武道の違いについて述べてきたが、このテーマについては今回記述するトピックについて明らかにされるまでは決して完結することはない。そのトピックとはオリンピックという世界最大で最高峰のスポーツイベントに武道の種目の一つである柔道が参加しているという状況をどう理解するべきか、ということについてだ。正確にはオリンピックと柔道の問題そのものと言うより、そこから見えてくるスポーツと武道の違いを曖昧なものにしている本質的な問題がどういうものであり、それをどう理解するべきか、ということになる。そこに辿り着かない限り、いくらスポーツと武道の歴史やその特性の違いについて述べたところで依然としてそれらの全貌をうっすらと覆っている霞が晴れることはない。
これはもともとスポーツ的な考え方を知らなかった日本人と、武道的な考え方を知らなかった海外の人達が柔道という一つの競技を介して混ざり合った結果として起こった化学反応だといえる。従ってこの化学反応を分析することで本質な問題を見出すことができる。
柔道は1964年に開催された東京オリンピックで正式に競技種目として加えられた(女子は1992年バルセロナオリンピックから)。柔道の国際化は、柔道の創始者である嘉納治五郎の夢であり、オリンピックの正式種目に加えられたことでそれは実現された。当時の日本人にとって、そして嘉納にとっては日本の柔道が世界に広がるという夢の実現の第一歩が開かれたのであって、これが世界スタンダードの柔道へと変貌していく第一歩であったことを意味していたなどとは予想するべくもなかった。それ以来、柔道を取り入れた国々は、日本に追いつけ追い越せとばかりに日本の柔道を研究し、レベル向上に努めてきた。
しかし嘉納が柔道に込めた思想は武道としての姿勢が元になっている。それは精力善用、自他共栄という理念で示された人格形成を目指す道であり、生涯追求していこうとする時間軸を伴う。従って嘉納の柔道思想をよく理解し伝えることのできる指導者によってじっくり時間をかけて浸透させていく必要があったが、オリンピック種目になりスポーツ文化圏の中に飛び込んだ柔道は、スポーツとして広まるスピード感にすっかり飲み込まれていくことになる。つまり嘉納の柔道思想をよく理解している指導者の数とそれを理解できるように伝える十分な時間を確保することができなかった。それよりもなによりも嘉納治五郎を始め柔道の国際化に関わる日本人達が、「遂に日本の柔道を世界に広げられる夢が叶う」という万感の思いに満たされ楽観的展望を持っていただけで、スポーツ文化圏に武道コンセプトを伝えようとする上で起こり得る様々な問題を十分に想定し吟味することはなかった。
日本柔道はオリンピック種目になる少し前、つまりこの東京オリンピックの正式種目になることを目指したときからオリンピック種目として適応するためのルール整備を行い準備してきたものの、東京オリンピックで日本人がオランダのへーシングに敗北を喫したことを皮切りに、日本人の敗北が積み重なっていく毎に、柔道の試合のやり方に対する海外の国々の発言権が強まっていった。その結果、オリンピック種目となった柔道は日本以外の国の人達のイニシアティブによって、禁じ手項目の追加、審判規定、制度やルールの変更等が繰り返されている。これらの変更は当然、柔道の試合の在り方をその都度改善していくために行われてきたものだが、その発想はスポーツ的合理性に基づいており、こういった改善が進むにつれて嘉納の柔道思想は次第に霞んでいくことになる。
勢い、海外の選手は「オリンピック種目の柔道」として取り組むことになり日本に勝つための戦術を組み立てる上では当然スポーツ的ロジックに基づいたものなる。一方で日本の柔道家たちは、相変わらず見事な一本をこのスポーツの価値基準の中で達成しようとしてきた。しかし、それはあたかも四角い戦いの空間の中にはめ込んだ円の中だけで戦おうとするようなもので、どうしてもその四隅に行き届かない虚空間が生まれる。もし武道としての柔道というものを理解している者同士の戦いであればたとえ四角い空間の中でも暗黙の了解の下、誰もその四隅には踏み入れようとせず、あくまで円内での戦いを繰り広げることが出来るに違いない。しかし最初からオリンピック種目としての柔道に取り組んでいる海外の選手には理解すべくもないのは当然であり、スポーツ的な戦術を練る場合、その虚空間に付け入ろうとする発想がいくらでも出てくることになる。
もともと柔道の柔という字は、柔らかいという意味があり、この呼称に柔道という武の何たるかが既に現れている。それはつまり、「柔よく剛を制す」である。ごく表面的にまたは単純な理屈で考えるならば本来、剛が柔を制し、大が小を制し、強が弱を制するのは当然である。柔が剛を制するための身体感覚は、そういった単純で表面的な現象のずっと奥に潜んでいる。そういった人間の潜在能力を探し引き出そうとするところに人間がわざわざ戦うという行為を体系化して生涯かけて鍛錬しようとする意味を見出すことができる。柔の技を見つけるためには、ルールによってではなくまず自分の意思で自分の中の剛のテンションを封印しなければならないが、スポーツ的合理性に基づいて改正されたルールに則り、勝つことだけを目指すオリンピックの世界では柔の技の攻防が表出することはない。勝つことが最優先事項になれば手っ取り早く、ごく単純に剛で柔を制しようとするのは合理的であり当たり前のことだが、勝つという目的に敵った合理性だけを追求すればするほど、柔道は剛道と化していくことになる。