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概念としての武道と定義された武道

嘉納治五郎が夢見た柔道の国際化はオリンピックという形で実現した。しかし、それから約60年経った今、国際化された柔道は完全に嘉納治五郎の柔道思想を失ってしまうという皮肉な状況を招いた。だが、この現状をネガティブに捉える必要はない。私は前項で、「スポーツ的な考え方を知らなかった日本人と、武道的な考え方を知らなかった海外の人達が柔道という一つの競技を介して混ざり合った結果として起こった化学反応だった」と表現した。この化学反応で明らかになった結果を踏まえより良い方向へ進んで行けばいいのだ。嘉納治五郎は世界に柔道を広めようとした開拓者だった。嘉納が担ったのは柔道が国際化という未知の世界を開拓する段階であり、その後に起こる問題に対処していくのはそれに続く者達の役目である。

嘉納が夢見た柔道の発展の形は嘉納の柔道思想を伴ったものがそのまま広がることだったが、それは60年が経過した今、オリンピック種目としてでは機能しなかったと結論付けざるを得ない。しかし、これは嘉納柔道を世界に広げようとした過程でスポーツとして見事に定着した肯定的な副産物を得たと捉えればいい。その上で本来の武道コンセプトの普及の仕方については改めて見直す必要がある。今後、柔道を含めたその他全ての武道が世界的に認知されていくために、まず武道の現状をできるだけ正確に認識しておく必要がある。

突然だが、現在中国武術は功夫(カンフー)と言う呼称で呼ばれるようになった。しかし、元々カンフーとは中国武術において、長年の武的な鍛錬による力の蓄積度を表す言葉だった。それが映画等のメディアを通して伝わる過程で中国武術全般を指す呼称として定着していった。つまりカンフーという言葉は現在二重の意味を持っている。

武道という言葉も同様に柔道が国際化されていく過程で二重の意味を持つようになった。一つ目は、道のコンセプトによって実践される武の身体活動のことである。その場合、スポーツのレベル追求の方向性や目的とは異なるということを再三述べてきたように、「柔道というスポーツ」という言い方は矛盾するし、道のコンセプトに則った実践内容を伴っていることが条件になるので、ただ道場に通っているというだけで誰でも無条件に武道を実践しているとは言えなくなる。その条件となるべき道というコンセプトについては引き続き記述していきたい。

二つ目は、剣道、柔道、弓道、合気道、空手道、相撲道、など単純に日本で生まれた武の種目が属するカテゴリーの名称である。この意味で使われる場合、柔道は武道というカテゴリーに属するオリンピックの種目なので「柔道というスポーツ」または「武道というカテゴリーのスポーツ」という言い方は成立するし、武道に属する種目のいずれかの道場に通っている時点で武道を稽古していると言っても何の問題もない。

「道としての実践内容を伴う武の身体活動」そして「武の種目が属するカテゴリーの名称」。この二つの武道の違いは、「概念としての武道」と「定義された武道」の違いでもある。

概念としての武道とはある共通の思想や信念の下に実践されるものである。その思想や信念は個々の内面の中に見出される。私はこの共通性の中で求められる技のことを本ブログで「見事な一本」と表現している。つまり見事な一本とは概念である。一人一人がこの見事な一本に対する理解を深め各自の思想、信念を明確にしていく度合い応じてそれらに従おうとする厳格さが高まっていき、それがやがて自分自身への行動規範のようなものとなっていく。つまり、規則でもなんでもないのだが、自分自身がそうしなければならない、またはそうすることを許さないというような自己教育、自制心というべきものが自分の中に確立される。そしてそれらの共通性が他者との間に見出された結果、そこに概念としての武道が生まれることになる。そうなってくると外観的な境界を形成するルールや規定などに向ける意識は弱まっていき、他者と区別する外観の境界は抽象的であいまいになっていく。柔道が日本国内に留まっていた時代は柔道着の色は白のみであり、それが問題になることは一度もなかった。それはこのように外観に対しての意識が低かったからだと言える。

それに対し、定義された武道は、対象となるものとそうでないものとの外観的な境界をルールや規定によって明確に区別する。外観の違いがはっきりすることによって第三者がその違いを判断するための合理性が高まり、それによってスポーツとして実践することが可能になる。オリンピックの種目として柔道がスポーツ化していく過程で、アントン・へーシング氏の提案により青い柔道着が採用された。これはスポーツ化によって定義された柔道において外観を区別するためのルールや規定が重要であるということを象徴している。

定義に基づいた武道とはルールや規定に従って実践されるものであり、同じルールや規則を共有する者同士が同じカテゴリーの武道を実践していると言える。そして定義としての武道ではこういった外観を維持するための条件さえ満たしていれば、一人一人の内面にある思想やスタンスは個人の自由にできる。

まとめると概念としての武道は、武道であるかどうかの基準を自分の中に芽生えた自制心に置くことによって外観的に規制を設けることには意味をもたない。それに対し、定義としての武道は第三者が判断できる外観に対する規定に基準を置く代わりに内面の思想やスタンスは自由にできる。スポーツとして定義されたものに武道の概念を持ち込むことは自由であり可能だが、武道の概念のなかに別の定義を持ち込むことはできない。従って、日本の柔道家のようにたとえ非効率的であっても本来の武道の精神を貫いた上でスポーツの試合に挑むこともできる。しかしその挑戦はスポーツという試合に臨んでいる以上、あくまで外観的規定に則った視点でのみ評価されるだけでその人の概念としての武道の精神性などがフォーカスされることはない。

このように加納治五郎が柔道を国際的に広めようとしてオリンピックの種目になり60年がたった今、武道という身体活動は概念としての武道と定義化された武道とが併存し混同された状態で実践されているという状況になった。

 
 

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